諸行無常のひびきあり

結局のところ飲み会などでのコミュニケーションは結論の見えた話し合いの場なのである。
結局行き詰まるところ”また明日からがんばろう”といって締めくくるのが常である

私もよく使う”頑張って”という言葉ほど無責任なものはない。

語源を調べると
頑張るは、江戸時代から見られる語で、漢字は当て字である。
頑張るの語源は、二通りの説がある。
ひとつは「眼張る(がんはる)」が転じて「頑張る」になったとする説で、「目をつける」や「見張る」といった意味から「一定の場所から動かない」という意味に転じ、さらに転じて現在の意味になったとする説。
もうひとつは、自分の考えを押し通す意味の「我を張る(がをはる)」が転じ、「頑張る」になったとする説である。
「眼張る」の説が有力とされるが、東北地方の方言「けっぱる」は「気張る」から、「じょっぱり」は「情張り」が語源となっているため、「我を張る」の説が間違いとは断定できない。

1つ目の説がただしいとすると、頑張るっていうのは何かがんばる対象があってのことだと言うことが分かる。取り上げて目をつけるものがないから困っている人に対して”がんばって”という言葉がいかに無責任だか分かるだろう。

2つ目の説がただしいとすると、自分を貫くことが頑張ることだということになる。自分が折れることは頑張るには当てはまらなくなる。自分のやりたいことを高らかにやりつづけるより、やりたくないことや嘘をつく方が精力を費やすことになるのは私だけだろうか?
”頑張って”いるからこそ、つまり我を張っているからこそうまく立ち行けない人に対して「頑張って」ということがいかに無責任であるだろうか。

しかし、私はそんな中思うことがある。
”無責任”とはなんといい言葉なのであろうか。
責任をとると言って自殺する人や会社をやめて行く人など、後を絶たない。それなら無責任に生きているほうがなんと潔いのだろうと思ってならない。

無責任ながんばりを貫き通して行こうと思う一日の始まりだった。