メール上の議論

今、団塊の世代の人とメール上で”言葉”について話している。

メールをコピペしておこうと思う。暇ならどうぞ

?おっさんのメール
昭和30年頃と思いますが文章日本語が大きく変わりました。
当時の新聞や雑誌を見ればわかると思います。民放ラジオや
テレビ試験放送の開始、週刊誌ブームで表現がガラッと変わり
文章が分り易くなりました。使用漢字の制限も寄与したでしょう。
私達の文章日本語はそのころのもので、今となっては修正も
ままならず、岩にはりついた濡れ苔をドライヤーで乾かしながら
コラムを書いています。
後世から見れば現在の5年くらいに、また文章が変わっているの
ではないかと思っています。ITや情報通信の技術の進歩が日常的な
なかで、コミュニケーションの意味や方法も変わります。言葉の
記号化もさらに加速的に進み、映像などに埋没しそうです。
そんな中で少しでもvividな文章が書けたら・・と、皆さんのコラムや
書き込みを拝見しています。

?僕のメール
書かれたメールが非常にささいなことですが、非常に面白いと思いました。
日本語が昭和30年ごろから変わっていったという話です。
僕はもう気がつくと変化した時代に生まれた人間で、厳格な文が書けないのです。
就職活動が始まり、言葉遣いや文章などの重要性というか、公的な文らしさとか
が求められているのを強く感じます。
僕は今20歳ですが、もう1つ下の世代は気がついたときからインターネット携
帯電話がある時代です。ますます言葉が変化していくと思います。
ことばが変わっていくことで表現できる絶妙なニュアンスが増えていくのと、消
えていってしまう昔の表現の美しさの両者を考えてみるのも有意義だと思います。
そんなことを思いました。

?おっさんの返信

>川澄さんのなんとなく書かれたメールが非常にささいなことですが、非常に面白
>いと思いました。
>日本語が昭和30年ごろから変わっていったという話です。

このなんとなく書かれた土井君の文章・・オカシクないかい?面白く
思ってくれるのは有りがたいけどサ。
この慶大生は「ささい」という言葉の意味や用法を知っているのか?それに
「ささい」ということばに「非常に」という副詞をつけた例は殆ど記憶に無い。
「なんとなく書かれた」もひっかかるな・・私はなんとなく書いたことは殆ど無い
な!
庵だから、そういうスタイルで書こうと、したことはこれまで何度もあるが。

土井君。私は貴君の言葉尻を「重箱の隅で」捉えてアレコレ注文を
つけようとしているのではないよ。
文章日本語が変わった・・これは極めて大きな日本文化の問題です。
私達日本人の存立にかかわる重要な問題なのだ。
(1)それを君は「非常にささいなこと」というわけだ。君にとって言葉とは何だ?

私が昭和30年ごろ・・と書いたとき、私は夏目漱石を思い出していた。
もしコラムなら、私は漱石を書きこんだが、庵のあそこでは相応しくない。
いうまでもなく明治のあの時代、漱石によって文章日本語が立ち上がった。
当時の文学、私は詳しくないが 例えば泉鏡花、あんな文章で教育や
論文、翻訳ができるか?
漱石はお雇い外国人にかわりロンドンに留学し、英語で文学論を著わした。
しかし彼が実際にやりたかったことは英文学でなく漢学だったという。
彼は帰国後 五高や帝大で教鞭をとり、そのご朝日新聞で小説を書く。
正岡子規、寺田寅彦らとの交流で「草枕」や「三四郎」の名作が出る。
こんなこと、君は高校時代に学んだと思うから、ながながと申し訳ないけど
彼の膨大な教養、知識そして苦悩があったからこそ現代文の礎が築かれたと
思うのだ。以降 同じジャンルで漱石を超えているのは丸谷才一だと思うが。

だらだらと書いてすまない。ただ私が「文章日本語」と書いたとき、そんなことを
思っていた。そんな書かなかったことまで君に負担をかけるつもりはないが、
「言葉と文化」についての当時の私の思いを書き加えたわけだ。
「非常にささいなこと」・・採るにたらぬ小さなこと、非常につまらぬことか?

>僕は今20歳ですが、もう1つ下の世代は気がついたときからインターネット携
>帯電話がある時代です。
>ますます言葉が変化していくと思います。

先週のNHK「クローズアップ現代」で、大学生の漢字の識字能力を
とりあげたが、君は見なかったかな?それによると大学生の1/5が
中学生並だという。漢字の能力・・それは言葉の全てをカバーするものでは
ないが、一定の尺度にはなりうる。
番組では岐阜県のある工場をルポしていた。学卒の若い男子社員が漢字を
理解できなくて150万円くらいロスしたというのだ。彼は「工程にいつもと
差異がある場合は上司に報告すること」という張り紙で「差異」がわからなかった、

のでおかしい事に気付いても報告しなかったそうだ。社長は驚いて、とりあえず
社員に言葉の再教育を施して、成果を人事考課にも反映させているという。
番組ではこの問題の原因としては、君が挙げているように若者の携帯やPC
依存生活があると分析していた。

余談だが君が20才だというので、私達の世代の20才をちょっと書きたい。
私の20才は昭和35年・・60年安保の年です。安保反対運動は
58年頃から私達大阪の高校でもすでに余波があった。
昭和34年早大に入学した。正門周辺、大隈銅像の周囲は毎日全学連の
タテ看があり、やかましい演説さ。ノンポリの私なんかでも結構巻き込まれた。
このあたりの事情は、慶大も女子大もいっしょだよ。マルキストがハバをきかせて、

34年春の皇太子・美智子妃ご成婚は、体制側が仕組んだ60年安保騒乱の
緩和策という説もかなりあった。岸首相は国会周辺の連日のデモに、機動隊
だけでは対処できないと判断し、自衛隊の出動を決めた。当時の防衛長官は
ー名前を忘れたがーこれを拒んだ。60年安保は日本国中に大きな亀裂を
残して夏に参院を通過して終息した。樺美智子さんが命を落とした。

なぜこんな余談を書いたかというと「34丁目の夕日」さ。33、4年の話だろ?
評判高い映画だろうけど、以前に書いたように私はみていない。
あの安保反対運動を映画では、あるいは原作ではどう扱っているの?
ノンポリにも苛烈だったあのころ・・なんだか「古きよき時代」っていわれると
少なからず違和感があるのだが・・。小杉さんはこのころ生まれてるのだ!

慶大生の土井君に1冊の本をすすめる。大学の図書館にあるだろう。
もう読んでいるかもしれないが。 必読です。
「神宮の森の伝説」 長尾三郎 文芸春秋
昭和35年秋の早慶6連戦を書いた本です。早慶6連戦は私達の青春の
宝です。いまの早慶戦のような気の抜けたビールと比べては間違います。
早大の伝説的なエース 安藤元博もこの著者長尾さんも亡くなりましたが。
私は今夏 ハンカチ王子斉藤投手にひっかけて、安藤投手をコラムに
書きたかったが すでに知る人も非常に少ないはずで書くのをやめました。
余談ばかりが長くなったが 半世紀前の慶応の先輩を想像されるのもいい。

>ことばが変わっていくことで表現できる絶妙なニュアンスが増えていくのと、消
>えていってしまう昔の表現の美しさの両者を考えてみるのも有意義だと思います。

(2)この両者について土井君が考えていることを、具体的に説明して下さい。
   私には君が考えていることが全くわからない。

太田さんがいう女子高生のブログやメールのたぐいに近いことかもしれないが
それが絶妙なニュアンスなの?(私は読んだこと無いが・・)。
最初に書いたように、女性や若い人のセンスが、この辺のことと重なるなら
これこそ若い君に解説してもらうのが一番だと思う。

以上の(1)と(2)について回答を下さい。

?僕の返答
(1)
> 非常にささいなこと
という表現ですが、これは僕の言葉が変な気もしますが、言葉については”当た
り前なことで気がつきづらいことだなぁ”というニュアンスを含めて使いました。
正確な日本語ではない気もします。
そのへんも言葉に気を使えてないと言えば、そのとおりでそのくらい言葉に気を
使っていないというのが伝わればと思います。(市民記者としては問題ですが・
・)
夏目漱石のような表現や翻訳は僕にはできません。というか文学部のエリートな
らできるのでしょうか?昨今の学生は僕も含めテイタラクなのでできないと思い
ます。

では、僕にとって言葉とはなにか。僕にとって言葉とは、コミュニケーションの
手段ということです。常に相手があっての言葉です。場所によって、同じ言葉で
も意味が違います。コンビニのバイトで会計後にいう「ありがとうございました」
と友達に借りてた本を返すときに言う「ありがとう」は同じ言葉でも意味は違い
ます。

僕たちは、言葉に難しい表現を使おうとしません。川澄さんの”虫愛ずる姫君”
など決して使いません。というか使えません。
そんな言葉を使うとみんな”?”を顔に出してしまいます。

だからではありませんが、言葉とは常に「場」と「相手」があってのものです。

「クローズアップ現代」の話ですが、非常に残念だと思うのも一意見です。しか
し、これは言葉の問題ではないと思います。だいたい、「差異」という言葉が分
からなかったからというのはおかしい。これは経営者と労働者の間にコミュニケー
ションが欠如していた結果だと思う。

「なんかあったら俺に言えよ」

この一言で違っていたのではないでしょうか?またNHKが若者に非を押し付け
ている点がどうかと思う。

それを漢字を書けないという問題に置き換えて「最近の若い者は!」という論調
は、いわゆるおじさん的な発想だと思う。失礼。。。
ただ近年の学生は昔と比べると確かに漢字を暗記している量は減ってきているだ
ろう。
これは一概に悪いことなのでしょうか。私は悪い面だけではない気がしてならな
いのです。
漢字はPCで打ち込めばシフトを押すだけで一発で変換できます。だから覚えま
せん。それでも、コミュニケーションは成立します。いいのではないでしょうか?
そうすると高尚な文が読めないではないか?という意見がでる。
たぶん読めないでしょう。それは非常に問題ではあります。
しかし、一方で新しい文や言葉が生まれています。
僕たちはメールで(笑)を最近は多用します。たぶん笑っていないのに(笑)と
書いてニュアンスを和らげています。

例文
今日なんで時間通り来ねぇんだよ!?
まじ発表間に合わなくて困るんだけど?
まぁまだ時間あるからいいよ。今度、焼肉おごれよ(笑)

のように使います。非難しながらもニュアンスを和らげています。
難しい言葉を使わず、場を表現できている。そしてこの相手を意識しているので
す。これは、難しい漢字を覚えないが故に生まれた表現であると思うのです。

というながながとした文ではありますが、結論として私にとって言葉とはコミュ
ニケーションに特化しているものということです。
そして、”ささいな”という表現は僕と川澄さんの間に、ニュアンスの違いがあ
りそれが問題となったということではないかと思っています。

(2)この両者について土井君が考えていることを、具体的に説明して下さい。
   私には君が考えていることが全くわからない。

たとえばみなさんは「orz」という意味が分かりますか?
使い方は
まじ今日はごめんorz

とか、文の帰結につかいます。
なんだと思いますか??
これは文字じゃなくて、絵としてみてください。3つの文字を並べてみると左に
土下座している人の姿が見えてきます。文字で絵を表現しているのです。
このように、一発で謝罪の意を表す言葉があったでしょうか
日本語の文化を壊していると激が飛びそうですが、言葉はいつの時代も変化して
います。何も現代だけではないと思います。
2ちゃんねるにはこのような文字がいっぱいあります。そして、オタクと女子高
生によって新しい言葉が日々生まれています。

これが新しい言葉の絶妙なニュアンスを表現している日本語の例です。

一方、より簡単な言葉を選ぶようになった現代人は、難しい四文字熟語とかを使
わなくなりました。この前、朝三暮四という言葉をゼミでつかったら頭を傾げら
れました。
> 彼の膨大な教養、知識そして苦悩があったからこそ現代文の礎が築かれたと
> 思うのだ。

文を引用させてもらいましたが、この文を簡単に

>彼のたくさんの知識と苦悩があったから現代の文が生まれたと思う。

としたら、川澄さんの言いたいことが薄れてしまうと思います。膨大とたくさん
じゃ重みが違う。そういうニュアンスが現代きえつつあることを言いたかったの
です。
特に私達は、すぐに携帯で写真を撮り、PCで絵を描き、映像も作ることができ
るようになってきています。言葉よりもっと簡単に表現することのできるメディ
アが多くなってきていくと言葉が重みを失う一方で、表現の幅が広がっていく社
会になっていくと思うのです。

最後に早慶戦について
僕らにとって早慶戦は飲み会のための大義名分となりさがってしまいました。
すいません。