人はそれを愛と呼ぶんだぜ

今日は高校生のみなさんと湘南台の八十っていうお店に行ってきました。
その空間には僕の高校生のときの友達とか友達とか友達とかいっぱいいたんですけど、店員さんはなんか大学の筋トレサークルの人とかいったり、なんとかで、たまらなく地元っぷりを発揮していて、僕はそのなんともいえない空間に酔いしれてしまったのであった。
湘南台はなんとも僕には訳のわからないフィールドなのである。

高校の仲間は僕のバカさっぷりを理解しているから適当にふざけて適当にお酒のんで適当に対応していたら適当なのは自分の内面でしかなくて、もっと世界はひろかったんだ。

でも、地元はきっとずっと座間であって座間でしかないと思ったのだ。
気持ちよくなっていると、いつのまにか終電はとっくにいってしまい、結局むかしのよしみの迎えにちゃっかり乗っかって帰宅することができたのです。

僕には僕はその瞬間のその一瞬の連続でしかないけど、あなたには断片的な僕がどううつっているのでしょうか?

僕には分かりませんでした。
いつも背伸びしてもっと先をもっともっと先を見たいのですが、それでもみえるのは見たいもののあと一歩前で隠れてしまって見えないのであります・

背伸びして見える世界がいつもの世界になって、もう一歩先の世界がみえたらどんなに面白いことでしょうか。それはサイヤ人がスーパーサイヤ人2になるかのようなことであります。

たとえば旅、人生を旅にたとえた松尾芭蕉の言葉は有名ですが私も彼のようにいきたい。
生きたいといっても彼の人生を深く知らない僕にはきっと表面的なことしかいえないでしょう。だから僕には奥の細道はかけないし、裏の細い道を夜風に当たりながら帰ることしかできませんでした。

明日からまた放浪の旅にでるんだ。それはなぜか分からない。
死ぬまでの暇つぶし。生きるための暇つぶし。果てのない旅の末に何があるのだろう