監視社会を考える

ジョージ・オーウェルの描いた「1984年」という小説のなかには完全に言論統制された社会があり、そこは完全な監視社会である。

家に置かれたテレスクリーンというものによって24時間365日、圧倒的な権力をもった国家に監視される。体制批判や思想にもとづく本を読むだけで極刑になる。

そんな世界を50年前に予期していた。

今の時代はどうだろうか?

監視社会になりつつあるのではないか?
eコマースが主たるIT企業が行うサービスでは、市場での購入履歴、証券の取引、トラベルの旅行先、そのすべてが履歴としてのこり、レコメンデーションシステムによって個人にあった商品・サービスを薦めてくる。一見便利にみえるがこれは50年前に予期していた監視社会を実現するものではないだろうか。

自分の行動が自分の知らないところで利用されている。
メールアドレスや住所などどこかで一度登録したことがあるから、きっと自分の知らないところで知らないことが行われている

Googleのアクセス履歴も怖い。
さっき自分のアクセス履歴を見たらCPZとかpunyupunyuとかエロサイトが上位にランクしていて情けなく思った。

携帯も怖い。
いつも何かとてつもない鎖につながれている感覚がある。

情報化社会におけるメディアリテラシーのあり方を考えるにあたっては
山に籠ってMマクルーハンのメディア論を読みふけることから始めてみる